2011年12月28日水曜日

亀井文夫作品 1957年制作原水爆実験後の日本の実態

福島県相馬市出身の監督、亀井文夫氏による1957年のドキュメンタリーフィルムをご覧ください。(現代の感覚としては、少々スローなので、流し読み用に書き起こしも用意しました。休暇中にお時間ある方に視聴して頂けるよう、動画と監督の経歴をシェアします。)




しょっぱなから、毎分1500レントゲンのコバルト60を鳥かごの下から照射して12分で小鳥が死ぬ実験映像。

核実験により、放射能汚染された東京の土壌を分析している様子が出てきます。α線を出すプルトニウム239も、セシウム137もストロンチウム90も、その含有量の増加などが当り前のように語られています。

以下、亀井監督の経歴。今年3月11日以来、徐々に露わになってきた我が国の報道統制に関する、闇の歴史の一部です。

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1908年 福島県相馬郡原町市に松本長七・くまの次男に生まれる。
    仙台市南材木町の尋常高等小学校に4年までかよう。

1918年 東京へ移転。
1921年 早稲田中学入学。
1926年 文化学院美術科入学。
1928年 文化学院在学中、ソヴィエトへ留学を志す。
    当初、亀井は絵を学ぶつもりでソヴィエトへ渡ったが、
    途中ウラジオストックの映画館で見た「上海ドキュメント」
    というドキュメンタリーに衝撃を受け、映画を志す。《20歳》

1931年 肺結核のため帰国。母、くまの開設したサナトリュウムで2年の療養生活を送る。《23歳》
1933年 東宝の前身 PCLに入社。
1937年 東宝映画文化部で「上海」を構成、編集、陸軍省に“注目”される。《29歳》

1939年 戦ふ兵隊を陸軍省の依頼で製作。
これは『疲れた兵隊』だ、との陸軍省の見解により上映禁止
1940年 代表作の一つとも言われる信濃三部作の一つ小林一茶を発表。
    文部省はこれを認定しなかったため、文部省『非認定』映画として全国上映、大ヒットとなる。

1941年 治安維持法違反の容疑で逮捕、投獄《33歳》
1945年 天皇の戦争責任を問う「日本の悲劇」をニュースフィルムを素材にして構成、編集。
GHQは上映を許可したが、時の首相、吉田茂はこれを見て激怒、フィルムは没収、上映禁止となる。

1946年 東宝に復帰、戦争と平和を山本薩夫と共同監督。 映画は未曾有のヒットをしたが、
時は東宝大争議の中『文化は暴力では破壊されない』名言を残して東宝を去る

1955年 株式会社日本ドキュメントフィルムを設立、以来《47歳》
「流血の記録砂川」 「世界は恐怖する」「生きていてよかった」「人間みな兄弟」と
一貫して、反戦、反核、反差別の立場から社会的問題作を発表、
時のアメリカ大統領ケネデイ生きていてよかった」を見て感激、
アメリカへの招待状を送ってきたが、日本政府はビザの発給を拒否した。

《1964年》フクシマ第1・用地買収スタート 《56歳》
《1967年・9月》工事スタート       《59歳》
《1971年・3月》営業スタート       《63歳》

1972年 「ギャラリー東洋人」を開業。骨董屋主人に収まる。《64歳》
1986年 畢生の大作「トリ・ムシ・サカナの子守歌」を世に送る。
構想4年、製作3年、病める現代の回生を願うダイイングメッセージを 警世の声として他界。《享年78才》

1 件のコメント:

針男 さんのコメント...

ツイッターから来ました。
とりあえず30分、また時間を見て拝見します。復習になるし、ナレーションがゆっくりで分かりやすい。単位が違うのでまた参照してみます。
徳川夢声の声かー武谷三男の名前やはりあるなーとか、東大アイソトープの様子とか、興味深いです。
また来ます。

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